京本大我くんの『白い心臓』について考えてみた話。【自己満】
私の勝手な解釈なので、読みおわって「は?全く違うでしょ?」と思ったとしてもスルーしてください!!!!!!個人の勝手な感想です!!!!!
少年たちでまさかあの詩を目にすることになるなんて思わなかったです正直。
先日、少年たちにて掲示されている阿部ちゃんの天気予報の紙に書かれていた京本大我:作の『白い心臓』という詩。それはとても深い意味がありそうなものでした。
白い心臓 作:京本大我
生きることが下手くそ。現実逃避はお手の物。
僕がいるこの場所も、誰かにとっての幸せなのに。
大切なものに気付けず、苦しみばかりを語って、また今日を生きるの。
他人からの見え方ばかりを気にして、見失ったんだ。真っ白な僕を。
それでも僕を望むなら、ただただ作業のように鼓動を繰り返す、この干からびた心臓をくれてやる。
一読だけではなんのこっちゃわからない詩。
ツイッターでは「大我くんまた厨二?www」「京本くん病んでる?大丈夫?(T_T)」「今の状況に言いたいことがあるのかな?」などの意見がありましたが、わたしはそのどれでもないことだと感じました。近いのは「病んでる?」っていう意見かな。
わたしはこの詩が『SUNRISE』のアナザーソングのようなものだと思いました。「は?」って思いますよね、わかります。わたしも「は?」って感じです。
わたしは京本くんが何も言わずにファンを悩ませるようなマイナス要素を含んだ匂わせはしないと思ってるお花畑ヲタクなので!これは現在の自分を書いてるのではない、と信じたいです。だからこの詩をこのタイミングで発表することに、絶対何かしらの意味があるはず。
この夏のコンサートで披露してくれた『SUNRISE』という彼の作詞作曲の歌は、2015年のエリザベートに出演したとき自暴自棄になってしまった自分の経験や気持ちをもとに書いたと言っていました。それならもしも『SUNRISE』を書いた時と同じ時にこの『白い心臓』という詩を書いていたとしたら……。
8月に『SUNRISE』を発表して、9月にアナザーソングのような『白い心臓』を発表する。内容は置いておいてこれだけ見たらなるほど!って感じですよね。
すこしずつ、わたしがこの詩を読んで感じたことを書いていこうと思います。多少強引にこじつけたような箇所があります(^_^;)
生きることが下手くそ。現実逃避はお手の物。
これはきっとのちに出てくるこの詩の「僕」のことだと思います。
なぜ「僕」という人物は生きることが下手くそなのか、なぜ現実逃避はお手の物なのか。
向き合わないといけないことに向き合わなかったのではなくて、向き合えなかったのかな?と思いました。
幼少期になにか怖い出来事を体験したら恐怖心から自分の殻に閉じこもって出てこなくなりますよね、そのような感じではないのか、と。
僕がいるこの場所も、誰かにとっての幸せなのに。
ここから読み取れるのは「僕」は誰かから見たら幸せな暮らしをしているけれど、「僕」本人にとっては幸せだと思えない生活をしているということです。
大切なものに気付けず、苦しみばかりを語って、また今日を生きるの。
「僕」の側とか近くなのかなあ、わからないけれど、どこかに「僕」にとって大切なものがある。でもそれに「僕」は気づくことができないで、苦しみを語って今日を生きている。「また」という言葉があるので、何回も何年も「大切なものに気付けず苦しみばかりを語って」いる生活をずっと繰り返しているんですね。
他人からの見え方ばかりを気にして、見失ったんだ。真っ白な僕を。
「僕」という人は元々真っ白な純粋無垢な人だったのではないのか?と思います。だから他人からの目を気にするあまり、元々の本当の自分を見失ってしまった、と読み取れます。
それでも僕を望むなら、ただただ作業のように鼓動を繰り返す、この干からびた心臓をくれてやる。
「それでも僕を望むなら」ということは、なんらかの存在が「僕」のことをずっと望んでいるということです。元々の本当の自分を失ってしまった「僕」でさえも望むのなら、この身を捧げてやる、ということなのかなあ……。
で、このどこが『SUNRISE』のアナザーソング的なものなんだよ!とツッコミを入れた人はたくさんいるはず。
わたしはこの『白い心臓』という詩に出てくる『僕』という人物は、エリザベートに出てくるルドルフのことではないのだろうか?と思ったんです。
『SUNRISE』はエリザベート時の自分の経験や心情を、『白い心臓』はエリザベートに出てくるルドルフの心情を描いているような気がしました。
ここから徐々にわたしの解釈の種明かしをしていきます。
精神と肉体を痛めつける教育の影響により、ルドルフは暴力的で神経過敏かつ虚弱体質の、恐怖心の強い子供となった。またルドルフは内気で意固地で、事あるごとに自分の殻に閉じ籠った。
まずルドルフという人物は、史実に書いてありますが恐怖心が強く自分の殻に閉じこもることが多かったそうです。
18歳になるまでの教育期間においてルドルフに関わった教師は同時に30人以上いたこともあると言われるが、この人数は19世紀後半当時の王侯貴族の教育状況においては、とりわけ極端に多いとは言えない。
王侯貴族の教育状況において多いと言えない、とありますが、18歳までに30人も教師が関わっているのはやはり一般から見たら多いのだと思います。たくさんの教育が受けられる、それは貧しい家庭から見たらとても幸せなこと。けれどルドルフにとっての幸せはきっと、母親と一緒に自由に暮らすことだったのではないでしょうか。
ルドルフが気づくことができなかった「大切なもの」は「父親からの愛情」なのではないかとわたしは思いました。これはあくまでもわたしの想像でしかありませんが、子供のことを心配しない父親ではないと思うんです、フランツって。愛するエリザベートとの子供ですし。
成長するにつれて、エリザベートと同じ自由主義のルドルフとの対立は深まりましたが、根底には心配の気持ちがあったのではないか。その心配の気持ちが怒りとなって、余計に対立を深めてしまったのではないか。わたしはそう思います。
もちろん父親に心配されているなんて思わないルドルフはただ父親に理解されない苦しみを語って、父親のことを非難し、自分の1番の理解者はママだ、と決めて毎日を生きているんだと感じました。これは舞台のシーン的にはまだ闇が広がるの前からその最中に思えるので、そのときは独立運動参加前だから少し未熟ということを表すために「生きるの」という表現なのかな?と思いました。わからない!
他人、というのは革命家たちのことだと思います。革命家たちの目を気にしすぎて、トートにいいように手の上で踊らされるうちに、元々の真っ白な自分を見失ってしまった。さらに、父親からは見放され、1番の理解者だと信じていた母親には苦しみを理解してもらえなかった。
トートという存在はエリザベートのことをずっと求めていますが、実はルドルフのこともずっと求めています。幼少期のシーンで、ルドルフのことを拳銃で打とうとするけれど見逃してあげてるんです。
何もかも失い、残っているのは作業を繰り返すように鼓動を刻んでいる干からびた心臓だけ。そんな死んでしまっているも同然の自分でさえも望んで求めてくれるトートという存在。ルドルフはその誘いにのってしまったんだと思います。
この最後の部分はエリザベートでいうマイヤーリンクの場面にあたります。舞台を観た方ならわかると思いますが、マイヤーリンクは青の皇太子の洋服を脱いで白シャツで踊るんです。それが元々の本当の「僕」の姿なんだと思います。
最後はトート(死)を自ら求め口づけをし、拳銃の引き金を自らの手で引いてしまう。「心臓をくれてやる」とまるで自らの意志であるかのように詩の中では書いてありますが、マイヤーリンクの踊りの中では死んではいけない!と我に返っているところもあるんです。
トートの「死にたいのか……」という誘いにのってしまったのは、最初からルドルフが死を求めるようにトートが仕向けていたのではないか。ルドルフ自身は自分で道を切り開いて選択したと思っていても、実際はトートが作った道の上をルドルフは歩かされていたかのように思えます。きっとルドルフは知らないことでしょう。
タイトルの『白い心臓』の意味は正直わからないです。そもそも心臓、と聞いてイメージする色は普通なら赤やピンクだと思うんですけど、あえて白という色を選んでいる京本くん。
『白い心臓』という言葉からは生気が全く感じられないですよね。
でも本来、白という色は純粋無垢などのプラスのような意味も持つので、タイトルもプラスの意味でつけたのかな……真意が知りたい。
という感じがわたしの『白い心臓』の感想でした!はじめに書いた通り、これはわたし個人の感想です!もしこうじゃないのか?という意見があったらDMまでお願いします!たくさんの人とこの詩について議論を重ねたい!
もしも何かの手違いで京本大我くんがこのブログにたどり着いてここまで読んでくださった場合、雑誌かどこかでこの詩についてすこしでも触れてください!お願いします!
深夜に書いたのでそのうち書き直し加えます。